静寂の亀裂 夜は冷たく、ちょうどその頂点にあった。 血のように赤い月が、街路や庭園、林を深紅に染め上げ、全てがどこか血濡れの色に包まれていた。 哀しげな風が吠え、地獄の慟哭を連れて吹き抜け、植物たちはそれに合わせてねじれた円舞曲を踊る。 まるで自然そのものが、葬送のオペラに従って舞っているかのようだった。 蝋燭の灯りはかすかに揺れ、黄色い霞のような光が路地裏や陰影に優しく触れた。 そこには、目撃されることを恐れる生き物たちが身を潜めていた。 通りは――ただ虚ろに、空っぽだった。 地獄の第四圏。その奥深くに、一つの宮殿がある。 尖塔が林立し、針のような塔が天を突く、ゴシック様式の建築。 風見鶏が怠そうに回るその頂は、永遠の黄昏に浮かぶ紫雲をかすめていた。 磨き上げられた黒石の壁には、忘れられた物語を囁くステンドグラスと精緻な彫刻が施され、 尖ったアーチには蔦が絡みつき、まるで過去に囚われた記憶のようにそこから離れようとしない。 ガラス越しに微かな光が揺れ、まだこの建物が何かしらの秘密を抱えていることを物語っていた。 正面の扉は鋳鉄でできた一枚板。きぃ、と軋む音を立てて開くと、 香と埃の混じった、ぬくもりある古の空気が漏れ出した。 その入口を挟むようにして、正体不明の草花が植えられていた。 一部は地上のもの、一部は明らかにアヴェルヌスに起源を持つ異形の植物―― どれも既知の分類に収まりきらない、不気味な美しさを湛えている。 物語はここから始まる。冥府の王のひとりが眠る寝室にて。 部屋の壁には緋色の壁紙が貼られ、 空を舞うような翼の紋章――五芒星を囲む双翼の輪――がモザイクのように散りばめられていた。 部屋の中央には、ビロードと絹で覆われた巨大なベッドが置かれ、 まるで疲れを忘れさせるように、モルフェウスの抱擁へ誘っているかのようだった。 ベッドの両脇にあるオイルランプは、燃料ではなく、魔術で灯された小さな炎で灯りを放っていた。 その温かな光が、マホガニー製の化粧台を照らし、そこに彫られたバロック調の浮彫がゆらめくように見えた。 そこには、二つの存在が眠っていた。 最初に姿を見せたのは、パイモンだった。 彼の姿は翼を持たぬ擬人化されたフクロウでありながら、王者の風格を纏っていた。 広い肩幅、光を受けて輝くマホガニー色の羽毛。 その頭上には、目元から高く伸びた大きな羽飾りが眉のように立ち上がり、 その影の下に、白きダイヤを散りばめた黄金の王冠が、威厳と共に鎮座していた。 彼の長く細い尾羽は床を撫でながら伸び、歩くたびにその堂々たる風格をより一層際立たせる。 その顔には、白磁のように滑らかなヴィクトリア調の仮面があり、 金のフィリグリーが繊細に施されていた。 仮面の奥からは、深紅に染まった虹彩と、奈落のように漆黒な角膜を持つ双眸が燃えるように輝いていた。 それは、地の底に迷い込んだ灯籠のように、深く、恐ろしくも美しい光を放っていた。 身に纏う衣は、十九世紀末の貴族を思わせる重厚なスタイルだった。 白いカミソールの上に、ワインレッドのウエストコートを羽織り、 金のボタンと黒い飾り紐が、その輪郭を強調していた。 そしてその隙間からは、家系と魔術的権威の象徴である鎖状の装飾が垂れ、 まるで花冠のように胸元を彩っていた。 その手を覆うのは黒革の手袋―― だがそれは宮廷人の飾りではない。狩人のそれであった。 漆黒のズボンは脚にぴたりと密着し、無駄な布の揺れすら許さぬ沈黙の威圧感を醸し出している。 その全てを包み込むように、高襟の外套が肩から足元まで流れていた。 その内側は金色に輝き、 白く微細な斑点が夜空の星々のように散りばめられている―― まるで閉じ込められた星屑のように。 外側は深紅と臙脂のグラデーションが重なり、 裾には煌めく宝石が縫い込まれていた。 それは、虚空に逆さまに浮かぶ星座のように、静かなる威光を放っていた。 パイモンは、その場にいたもう一人の存在――王妃オクタヴィアと、激しい言葉を交わしていた。 彼女の姿は繊細そのもの。 その身体には、永遠そのものが彫刻したかのような、完璧な曲線美が宿っていた。 夫と同じく、彼女も翼を持たぬフクロウの姿をしていたが、 羽毛は灰色に薄く青が差し、氷のきらめきを湛えていた。 その顔――純白の陶器のように滑らかで、非現実的なまでに整っていた。 そこには六つの眼があった。 通常の位置にある二つの目に加え、 額には左右それぞれ縦に二つずつ、四つの目が並んでいた。 すべて深紅の光を宿していたが、 最も下の一対だけは、灼けた象牙のような白一色に輝き、 その視線はどこか現実を逸脱していた。 その姿はまるで天上の仮面―― パイモンの仮面に通じる神秘を湛えつつ、 彼女の場合は顔全体を包み隠していた。 それゆえ、彼女の存在にはただならぬ荘厳さが漂っていた。 その眉は人間的な表情を持ち、 静かな儀礼を思わせる威厳を顔に与えていた。 小さく細い嘴は、穏やかな優しさを象る最後の一筆。 その全てが、計算し尽くされた美しさであり、計算そのものだった。 彼女が身にまとうのは、縫い目一つ見せぬ一枚布のドレス。 幾層にも重ねられたかのような精緻な仕立ては、 パイモンのヴィクトリア調衣装と呼応しつつ、 厳格さよりも華麗さを選んでいた。 布地には、星一つない宇宙の色彩が宿っていた。 漆黒、灰、氷の白、深い青―― それらを背景に、腰元、襟、袖口、胸元には黄金の装飾が静かに輝いていた。 両腕は、半透明の黒い絹の手袋に包まれていた。 そしてその額には、三叉に分かれた小さな金の冠が、 重さも感じさせぬほどそっと載せられていた。 その姿こそが、静寂に君臨する女王の証であった。 彼女を見つめる者は、母性の温もりと、 神に触れたような敬虔なる冷気―― 相反する二つの感情を、同時に味わうことになるだろう。 その美は、意図によるものではなく、 本質としての神性から生まれたものであった。 そして今、その神性すら歪めるように、 ふたりの声がぶつかり合っていた。 嘴から発せられる一語一句が、空気を斬る刃のように交錯し、 視線が交わされるたびに、過去の痛みが研がれた剣となって閃く。 古くから続く怨念と沈黙が、 今や目に見えるほどの厚みを持って室内に広がっていた。 その激しさは、宮殿の静寂を乱し―― ――気づかぬうちに、小さな王子を目覚めさせていた。 隣室。 その設えは両親の寝室に酷似していたが、 ベッドの代わりに、そこには揺り籠が置かれていた。 杉材で彫られたそれは、浮かぶ星座の装飾が施され、 魔法の静けさの中で、ゆっくりと揺れていた。 赤い柔布が天蓋のように覆いかぶさり、 それは帳であり、また守護の幕でもあった。 その中に、一羽の雛が眠っていた。 小さく、丸く、灰色の羽に覆われた身体。 白く淡い顔に、四つの赤い目が仄かに光り、 その瞳は両親のものをそのまま写したようだった。 彼は青と白の縞模様のパジャマに包まれ、 紺色の毛布にくるまれていた。 その布をぎゅっと握りしめながら、 壁越しに響く怒声に震えていた。 傍らには、奇妙なぬいぐるみがあった。 赤く、うさぎのような形をしているが、 その口元には不気味な笑みと、過剰に大きな歯が並んでいた。 とても子供向けとは言えない異様な人形であった。 その頃もなお、主寝室では争いの嵐が吹き荒れていた。 「怒らないのか?」オクタヴィアは吐き捨てた。震える声に、抑えきれぬ激しい怒りが滲んでいた。 「ありとあらゆる愚かなことをしておいて! あたしたちは模範であるべきではなかったのか?」 その一言一言が、絡み合う失望の重みに揺れていた。 「不遜な振る舞いをやめろ、女め。」パイモンは鋭く言い放つ。 「忘れるな、ゴエティアの中で命令を下すのは我だ。身の程をわきまえろ。」 「お許しください、陛下……」彼女は毒に満ちた声で吐き捨てた。 「忘れていたわ――王族は、忠誠心のような些細なことには縛られないのよね。」 「その皮肉は無駄だ。」彼は目を細めて返す。 「あたしの娼婦な妹と寝たのはお前だ! そろそろ陛下ルシファー様に相談するべきではないか? お気に入りの犬が規範を示せないことを、王様がどう思うか――」 オクタヴィアの脅しに、パイモンの血は熱く沸騰した。 確かに、パイモンはゴエティアの王たちと共に頂点に立っていた。だがルシファーは違う。ルシファーはすべての上にあった。 もしパイモンが倒れれば、王たちも倒れる。そして王たちが倒れれば……ルシファー自身が辱められることになる。 それは許されない。 本能に突き動かされ、パイモンは片手でオクタヴィアの喉を掴み、もう片方の手で彼女の頬を包んだ。 言葉はなく、全力で壁に叩きつけた。 鈍く、残酷な音が響く。 息も絶え絶えにオクタヴィアは両手で絞めつける手を掴み、防御のため嘴を開け、激しく夫の肉に噛みついた。 その一撃は逆に、彼の怒りを煽っただけだった。 パイモンは即座に妻を解放し、拳を握りしめて激しく殴りつけた。 嘴はひび割れ、血が頬を伝い、羽を染め、衣服に滲んだ。 パイモンは肌にかすかに残った痣を見つめ、苦痛と怒りに満ちた瞳でよろめいた。 その暴力は物理的なもの以上に精神に響いた。 激しい争いは空気を震わせ、隣室にいる幼い王子の泣き声を呼び起こした。 その泣き声は高く、絶望に満ちていた。 壁を鋭く貫き、宮殿の隅々まで響き渡った。 それは恐怖と、壊れた心から生まれた純粋で本能的な叫びだった。 その音はパイモンの中の何かを砕いた。今夜、彼はもうこれ以上の侮辱に耐えられなかった。 「化け物!」オクタヴィアは蔑みを込めて吐き捨て、涙を堪えながらも声を震わせた。 母性の本能だけで、オクタヴィアは袖で顔を拭い、必死の泣き声をあげる息子の元へ駆け寄った。 彼はすでに、進んで抱きかかえる執事の腕の中にいた。 執事は争いの気配を察し、泣き声が始まると同時に部屋へ入ってきていた。 だが幼子は容赦なかった。 その泣き声は癒されることなく、まるで秩序と慰めを求める懇願のようだった。 小鬼(インプ)たちは小柄な生き物で、ゴエティアの半分もない身長だった。 赤い肌に角を持つ者、白地に黒い縞模様の者、黒地に白い縞模様の者……あるいは単色で明確な模様のない者もいた。 身体的にも階級的にも劣ってはいるが、同様に不可欠な存在であり、地獄の大多数を占めていた。 この小鬼は中くらいの大きさで尖った角が頭頂へ向かって真っ直ぐ立ち、三本のはっきりした黒い縞が刻まれていた。 肌は赤く、右目の周りだけが薄く白に近い色合いに変わっている。 好奇心をそそる白い口髭と同じく雪のようなたてがみを持ち、 それは彼の高齢を示す明らかな証だった。 背中からは三つの棘を持つ尾が伸び、先端は矢じりの形をしていた。 彼の服装は落ち着いた気品に満ちていた。 高い襟の白いシャツ、赤紫の蝶ネクタイ、灰色の上着、黒いズボン、長い白い靴下、そして光沢のある黒いエナメル靴を履いていた。 「殿下、誠に申し訳ございません。」執事は恥と敗北の重みを帯びた声で言った。「お話の邪魔をしてしまいました。」 しかし女王の顔の傷を見ると、すぐに口調は変わった。 「これは…なんと無礼なことでございます!」彼は恐怖に満ちて叫んだ。「すぐに医師を呼びます!」 「結構です、ラエルさん。お戻りください。」オクタヴィアは魂の底から疲れ果てた声でため息をついた。 「かしこまりました、殿下。」小鬼は一言も発さず、慎重に王子を抱えて退出した。 オクタヴィアは彼を腕に抱くと、たちまち陰鬱だった泣き声は消えた。 まるでその存在だけで、平穏を取り戻したかのように。 「心配しなくていいのよ、君。ママがいるから。」 震える小さな手が母の顔に伸びる。 彼は笑ったり喃語を発したりはしなかったが、その仕草には痛みがあった。 子供だけが理解せずとも表現できる、純粋な悲しみがそこにあった。 「落ち着いて……ママは大丈夫だよ。眠って、泣くのはやめてくれる?」 答えは理解不能な声だった。 オクタヴィアは無限の優しさと古の叡智で玩具を手に取った。 差し出すとすぐに、幼子は強くそれを掴み、手足をばたつかせながら、かすかに微笑んだ。 オクタヴィアはそっと彼を揺り籠に戻し、注意深く寝かせた。 そしてしばらく見守った後、立ち上がった。 「良い夢を、ストラスくん。」囁くように告げて、静かに扉を閉めた。 寝室に戻り、避けたかった願望に胸を詰まらせながら、オクタヴィアは夫と向き合った。 パイモンはこれまでの出来事に動じた様子はなく、 自らの権威に自信を持ち、誤りを犯していないと確信している。 彼にとって、もし何か結果があるとすれば、オクタヴィアのものだ。怪我があるのなら、彼女が受けるべきものだった。 「医師が来て診察する。明日の朝食の席では、質問は一切許さぬ。」それは忠告というより命令だった。 オクタヴィアが席を外している間に、パイモンはゆっくりと服を脱ぎ始めた。 シャツを脱ぎ、丁寧に畳んで籠に投げ入れる。 今や彼の身には下着しか残っていなかった。 彼の体は称賛に値した。無駄な脂肪を排した筋肉質の力強い造形。 広い胸板、形の良い大胸筋――すべてが力の彫刻だった。 だがオクタヴィアにとって、その魅力はもはや存在しなかった。 彼の美しさは無意味となり、感情の毒に埋もれてしまったのだ。 しかしパイモンにはそれが理解できなかった。 彼の心の中では、彼の魅力は変わらず効果的であり、肉体が罪を消し去るに十分だと信じていた。 そうして彼は妻に近づき、肩をしっかりと掴んで、赦されぬ行為を正当化するかのように官能的に撫で始めた。 それは決して言われることのない謝罪の代わりだったかのように。 オクタヴィアは嫌悪感を抱き、視線を逸らし、掴まれた腕から抜け出そうとした。 最初は成功しなかった。 誰かが扉をノックするまでは。 その瞬間、パイモンは彼女を放し、一時の自由を与えた。 「入れ。」パイモンは深く冷たい声で言った。 「ご許可ありがとうございます、陛下。お呼びでしょうか?」扉の向こうから声がした。 新たなインプが慎重な足取りで入ってきた。 彼は短く、横に湾曲した角を持ち、まるでバイクのハンドルバーのようだった。黒い二本の縞がそれを横切っている。 丸く突き出た鼻はふっくらとした顔から飛び出ており、過剰に大きな丸眼鏡で半分隠れていた。 彼は黒いスーツを身にまとっていた。 古いペスト医師の服装を思わせるものの、特徴的なカラスの仮面はなく、温かみがあり恐ろしくはなかった。 黒革のケースから器具を取り出し、女王の顔と首の診察を始めた。 そこは夫に虐げられた部分だった。 彼は静かに効率的に作業を行った。 まず、傷に触れる軟膏を塗ると、まるで傷が元からなかったかのように消え去った。 続けて、オクタヴィアの嘴にタオルを置き、その下に不思議な、溶けない氷を置いた。 彼女の本来の白さが数秒で戻った。 それでもなお、場面は非常に不気味だった。 「この氷は第九円からの祝福です。」医師は陽気な笑い声を交えて言った。「決して溶けません。このまま数分間嘴にあてておけば、眠ることができますよ。」 「ありがとう、医師。終わったら帰ってよい。」パイモンは命じた。 「ご心配なく、殿下。大したことではありませんでした。」医師は慰めるようにオクタヴィアに言った。 数分後、オクタヴィアは氷のついた布を返した。 医師は二人に深く一礼し、器具を片付け、何も言わずに静かに退出した。 「次の時間は……これを覚えておけ。」パイモンは鞭のように鋭い声で言った。「さあ寝よう。明日は遅刻しない。」 彼はベッドへ歩み寄り、仰向けに横たわって天井を見つめた。 まるですべてが整っているかのように、妻を待った。 まだ痛みの残るオクタヴィアはそっとドレスを脱いだ。 彼女は下着姿になり、薄いパンティーとシンプルなブラジャーだけを身に着けていた。 震える手で柔らかな布の寝間着を纏い、パジャマの代わりにした。 そして――すべての望みに反して――夫の隣に横たわった。 パイモンはすぐに彼女を抱きしめた。 その腕は氷のように冷たく、偽善的な抱擁だった。 まるで数分前に世界が砕け散ったことなどなかったかのように、彼の体は欲望を隠しきれず密着していた。 オクタヴィアは目を強く閉じ、嘴をわずかに震わせ、爪でシーツを掴んだ。 内なる嵐の中で唯一の錨を探すかのように。 こうして二人はゆっくりと眠りに落ちていった―― 一人は己の正当性を信じ、 もう一人は目覚めないことを願いながら。 *** 地獄の地平線に太陽がゆっくりと現れ、紫の空を異様な光で照らし始めた。 その光は白熱し、非現実的で、宮殿の黒い石壁を穢れた温もりで撫でていた。 植物はこの狂気の星の湯煎に反応し、花びらを儀式のようなゆっくりさで開いた。 それは安息を約束しない夜明けの共鳴であり、ただ続いていくのみだった。 光の筋が王族の部屋に差し込み、最初は王の寝室へ、次に隣接する小さな部屋へ届いた。魔法で守られた揺り籠の中、小さな姿が眠っている。光がその顔に触れると、王子の瞼が震え、まだ世界を理解しきれぬ脆さでゆっくりと目を覚ました。 彼の今日最初の声は泣き声だった。前夜の恐怖ではなく、習慣に根ざした儀式のような声。新たな一日の始まりを告げる詠唱だった。 「女……」パイモンの声は枕の間を這うように響き、倦怠に沈みながらも命令のように呟かれた。彼は目を開ける前に、世界がその訴えに応えるのを待っていた。 オクタヴィアは無限の知恵を持ち、朝の動作の達人として、ほんの一瞬の間を置いた。泣き声は止み、赤子は再び静かになった。 まだ眠そうな女王は、何をすべきか完璧に把握し、寝室を後にした。 「おはよう、王子ちゃん」優しく、昨夜のすべてを忘れさせるような声で歌うように言った。 「おはよう、殿下」背後から女性の声が返る。 「おはよう、リムさん」 子を託した後、教育係の女性は床に落ちた玩具を正確に拾い上げる。彼女の動作は無駄がなく、完璧な制服の乱れひとつなかった。 その存在は優雅かつ支配的で、平均的なインプより少し背が高いだけのリムは機械のように効率的に動き、後ろに続く家政婦たちを滑らかな動きで指揮した。彼女たちは静かな行列のように掃除し、準備を進めていった。 一方、ストラス王子は母親の嘴を弄んでいた。小さな手で優しく引っ張り、その感触を確かめるかのように。 オクタヴィアは彼をゆっくり揺らす。体は揺れを拒むかのようだったが、義務がそれを許さなかった。 「お風呂の用意ができました、お母様」また別の声が控えめに告げる。 リムと似た制服を着た若いインプが控えめに近づいた。「ありがとう、少女」 そうしてオクタヴィアは王子の額に短くも優しさのこもったキスをした。 彼女はそのまま王子を優しく家政婦の腕に戻す。永遠に抱きしめていたいと願いながらも、自分だけでは世界から彼を守れないことを知っていた。 彼女はかすかなため息をつき、音を立てず部屋を出た。背後では日常が続いている。 今日の会議の準備はまだ進行中だった。 *** 出発の時間が近づくと、リムはオクタヴィアにストラス王子の乗る乳母車を手渡した。王子はお守りのようにぬいぐるみのウサギを抱きしめ、最高の服装に身を包んでいる。赤い小さなショールは金のボタンと編み紐で飾られ、真っ白な肌着は完璧にアイロンがかけられていた。 羽根は夜露のように輝き、柔らかく、生きた絹のような感触だ。 乳母車は豪華な紫色で設計が華美だった。磨かれた金属製の曲線が複雑に絡み合い、クリーム色の屋根は黒の繊細な装飾で縁取られ、荘厳で美しいコントラストを描いていた。 大きな車輪は滑らかに回転し、馬たちが精密に引き始めた。薄紫がかった青みの煙が馬車の周囲に漂い、幽玄な空気を醸し出す。 短い旅の果てに、目的地の邸宅が姿を現した。 威厳は控えめだが、建築の細部は見事だった。外観はルネサンス様式で、内装は壮麗なゴシックの美を見せている。白と黒の大理石が赤い色彩と調和し、アーチや柱、ステンドグラスを引き立てていた。 パイモンの嘴は緊張できしみ、拳は空気を砕くように握りしめられていた。 馬車の扉は金属音を立てて勝手に開き、中からパイモン、オクタヴィア、そして笑顔を浮かべる小さなストラスが降りた。乳母車は魔法に浮かび上がり、ゆっくりと動く。 遠くからスタッフの囁き声が聞こえ、入り口には二匹の地獄犬が警備に立っていた。狼のような姿の彼らは槍を携え、戦士のような自信を滲ませている。片方は客の到着を告げ、もう一方は執事が通るために道を開けた。 執事は小柄なインプで、山羊のように巻いた小さな角が特徴的だ。体格は小さいが、声は柔らかく低く、存在感とは裏腹に静かに命令を伝えた。 入口を守る翼のある石像、腐敗したような身体のガーゴイルは時の止まった守護者のように立っている。庭を囲む低い生垣は外界の俗世から距離を置くための控えめな障壁だった。 全体が見えないリズムで動いているようだった。走る水の音、いない鳥の歌、存在しない風の音。 起源のない音たち。 完璧な幻想。 瞑想や霊感を呼び起こすための交響曲だった。 「ようこそ、両陛下。お越しいただき光栄に存じます。」優しい女性の声が応え、出迎えに出た。 彼女の後ろからは男性が続き、その声は丁寧で節度ある。 「陛下、ご招待に感謝いたします」 「クロセル。用件はわかっている」パイモンは冷たく短く返し、無駄な挨拶を許さなかった。振り返らずに女性に短い会釈をする。「テイア」 一言。だが王の口からは挨拶、承認、そして判断が一度に込められていた。 クロセルはカラスとハーピーイーグルの混合種のようだった。灰色の羽毛に覆われ、鈍い白が頭を飾る。パイモンやオクタヴィアと違い、彼には翼が一つだけあった。黒い翼は彼の目のように闇に溶け込んでいた。 対してテイアはその鏡像のようだった。 ほとんど天上の白で包まれ、鳩のような姿は古代ギリシャ・ローマの長い衣装をまとっている。だがその穏やかさの下には潜む闇があった。 目に見えないが、確かに存在する闇。 「パイモン国王陛下」テイアは柔らかく声をかけ、死の影を帯びた余韻を漂わせる。「そして若き王子もご一緒ですね」 ためらわず彼女は乳母車に近づき、温かさをもって王子に話しかけた。 赤ちゃんは喜びの声を上げ、笑い、小さな声で喋りかけられた。 「二周期目だが、まだ話そうとしない」オクタヴィアは軽く呟き、その所作は優雅に流れていた。 ストラスは注目を浴びて喜び、くちばしの下をかき、頭を時計の針のように動かしてから、高い声で鳴いた。 「言うべきことがないなら、話すな」パイモンは息子を注意深く見つめ、厳しい目を向ける。 「さあ、時間を無駄にしないでください、陛下」クロセルは緊張しながらも礼節を保ち、話を進めた。「お腹が空いているでしょう」 王子は両手を上げて賛同した。 「賛成のようですね」クロセルは笑った。 一行は庭に向かい、話は続いた。 「第一の円からの報告は?」 「魂の流れは安定しています、陛下」クロセルは安堵を含み答えた。「まさにルシファー様の予言通りです……」 「あの愚か者たちのために、それが続くことを願おう」 「アダムさんはいつ怠慢の代償を払うのか、陛下?」クロセルは言葉を止めた。パイモンの視線が刃のように突き刺さったのだ。 緊張は庭に入るとほぐれた。空間がそう要求しているかのように。 庭は広大で不自然なまでに美しく、あり得ない色の植物が呼吸するかのように葉を揺らす。白い鋳鉄のテーブルと椅子が整然と並んでいる。幻想的な音が戻り、流れる水や姿なき鳥の歌、吹かぬ風の音が聞こえる。 地獄の宴が用意されていた。輝く果実、湯気の立つパン、漆黒のコーヒー、神話のように澄んだ水。生者の世界のものではないが、非常にリアルだった。 「己の種族を見限った者に期待はできぬ」パイモンは皮肉を込めて呟き、爪で光るリンゴを掴んだ。 小さな虫が皮から現れ、リンゴの内部を掘り進む。だが二匹目の大きな虫が現れ、最初の虫を飲み込み、リンゴを形だけ残して消費してしまう。 「育てるものは己の許すままに育つ」 二匹目の虫は果物の皿に飛び移ろうとしたが、愚かな火がそれを包み、一瞬で灰となった。 「大きくなり過ぎれば、制御不能になる。アダムさんは愚か者だが、他者に依存すれば次は我々だ。ルシファー陛下の業は無駄になる」 「承知しました、パイモン陛下」クロセルは諦めを込めて囁いた。 「証明してみよ」 沈黙は墓石のように重く、食器の音すら静まった。 朝食後、オクタヴィアはストラスを庭で自由に遊ばせた。 彼は植物の間を駆け回り、世界と語り合うように喋り、蛍を捕まえるかのように虫を追いかけていた。 一方オクタヴィアとテイアは離れて話し込む。 夫たちの視線が届かぬ場所で。 二人が一人きりだと確信すると、パイモンが静寂を破った。 「クロセル……命じたことは済んだか?」 「はい、陛下。ですが……」 「迷うな。計画を変更しなければならぬかもしれん。準備を急げ」 クロセルは飲み込んだ。 「完璧です」 *** 夫たちから離れ、二人の妻はおしゃべりを楽しむ。 「それで側室って何の意味があるの?」テイアは柔らかく、ほぼ音楽のような笑い声を上げた。「でもテラ様から聞けば納得ね。リヴァイアサン様は聞くのを楽しみにしているわ」 二人は遠くの男性たちを見た。 テイアの視線は驚きとは真逆で、知っていた原因か、繰り返し見た結果のようだった。 オクタヴィアの視線は読み取りづらかった。悲しみと怒り、郷愁と諦めが混じっていた。彼女の目はどこにも定まらず、直視は痛みを伴うかのようだった。 「冗談はありがたいが、今は時期じゃない」 「告発しないつもり?」テイアは少し口調を強めて尋ねた。「彼は自ら学ぶ男じゃない」 「それができたらどんなにいいか」オクタヴィアはため息をついた。「現行犯で捕まえたのに、彼は動じもしなかった。でも……」 ストラスの笑い声が窓越しに響き、子供の香りのように空間を満たした。 彼は植物の間で遊び、無邪気に喜び、虫を食べる火の虫のように捕まえようとした。無垢は光のように輝き、神性の火花のようだった。 オクタヴィアはそれを見つめ、その瞳は純粋すぎてこの世界にそぐわぬ愛で満ちていた。 *** 午後の早い時間、クロセルは昼食を共にすることを提案した。 パイモンは理由を告げず断った。 その顔は強固な決意を示していたが、体は硬直し、肩には緊張が張りつめていた。 オクタヴィアは彼の横を歩いた。姿勢は儀礼的で厳かだったが、ストラスが振り返るたびに足が震えた。微かな笑みはほとんどささやきのようで、不確かさが彼女を包んでいた。未来のこだまがささやき、受け入れたくない現実を告げていた。 「頼むぞ、クロセルよ」パイモンは彼の肩に力強く手を置き、命令を超える圧力をかけた。 「かしこまりました、パイモン陛下」 二人は宮殿へと戻った。 *** 食事は美味しかった。 食堂は静寂に包まれていた。 別の部屋では、乳母が王子に穏やかに授乳していた。 午後は信じられないほど静かに過ぎた。 パイモンは書斎に籠もり、紙と遺物と思考に没頭し、誰とも共有しなかった。 オクタヴィアはストラスと共に過ごし、月光のように柔らかい声で彼に読み方を教えた。 古代文字や忘れられた記号を彼の小さな手でなぞりながら、過ぎ去りし時代の物語を囁いた。 人類の物語、不思議な寓話、時間に半ば忘れ去られた歴史。 ストラスは魅了され、目を逸らさず、子供だけが持つ聖なる集中を見せた。 オクタヴィアの言葉は単なる音ではなく、空中に揺れる生きた映像となり、暗闇のベルベットに思考と記憶の星座を描いた。 仲間に置き去りにされたアヒルの子が星の川を静かに漂い、 少女は永遠に踊り続け、足が切断されても止まらず、靴だけがひとりで踊り続けた。 オクタヴィアは読み、歌い、彼を抱きしめ、物語は二人を運んだ。 やがてストラスは眠りに落ち、彼女は休みを許した。しかし、心は決して完全に休まらなかった。 彼女の思考は別の場所にあり、まだ決めかねていた。 そして、彼女は知っていた。選択の時は戻れない。 もし選ばねばならぬなら、息子のために。 その時、初めて自分自身のことを考えられるかもしれない。 この世界にはいつも時間がある。 だが、嘘は短い足で歩く。 そして真実は、遅かれ早かれ、必ず故郷へ帰る。 2